恵みのしずく(17)「私の戦争体験」 網野 博光
昔から“勝てば官軍、負ければ賊軍”という言葉があって、どんな戦争にしろ、勝ちさえすれば、勝った方の言い分が“正義”として通用してきた。
日本国内では、明治初期まで日本人同士の殺し合いの歴史は続いた。他方、世界では第二次大戦が終結して半世紀以上になるが、地域紛争は絶えない。
人間の歴史は、戦争の歴史、人の殺し合いの歴史であった。今やっと、「こういうことで良いのか?」と反省の心が人々の心の中に芽生えてきた。
日本は世界で唯一の核被爆国ということだが、戦争の悲惨さというのは核被爆だけではない。戦場で死んだ軍人も、空襲で死んだ普通の国民も、過労と栄養失調で死んだ軍需工場で働いていた人たちも、学徒動員で死んだ学生も、みんな戦争で“死んだ”ことには変わりはない。そして、その人たちには家族をはじめ血縁者がいた筈である。
“生命”の尊さが叫ばれるが、その生命が無差別にかくも簡単に無視されるのだから、住む家や財産を消滅させられてしまうことなど眼中にはない。まさに戦中、戦後の国民の生活は悲惨の極みにあった。国土は焦土化し、住むに家なく、日々の食糧も乏しく、このような辛酸をなめた国民は、戦争はもうこりごりだと肝に銘じた筈だった。しかし、50年余を経て、風化を恐れている昨今でもある。
いったい、戦争とは何なんだろう。これだけ多くの国民の生命と財産を犠牲にして、日本の国はこの戦争でどんな利益を得たのだろう? 何もなかったと思う。
恐ろしいこと、悲しいことが沢山起こっただけだった。そして今、核の時代を迎えて、人間が滅んでしまうという心配が出てきた。
こんな大きな犠牲を払って、人間はなんて愚かなのだろう、と思う。
1941年(昭和16年)、日本がアメリカ軍やイギリス軍に宣戦布告して「太平洋戦争」が始まった時、私は満州にいて小学二年生だった。
私の一家が、なぜ満州へ渡ったのか少し振り返ってみる。私は1934年(昭和9年)3月31日に東京市蒲田区糀谷町で生まれた。その頃の社会情勢は、決して平穏ではなかった。昭和の幕開けと同時に金融恐慌が起きて、中小銀行の倒産が相次いでいる。1929~32年の世界経済恐慌の影響も受けてのことである。
そんなことから、内地で食えない者、異国で一旗挙げようという者たちが満州へ、満州へと渡ったようだ。私もやがてその一人になるのである。私が二歳の時、母が急性肺炎とかで亡くなった。37歳という若さだった。だから私は、母親の面影を全く知らずに育った。
1940年(昭和15年)4月15日、私が6歳の時、一家で満州に渡った。当時は奉天省本渓湖市といったが、今は“瀋陽”となっている。父の兄が、当時、新京(長春)の都市建設局に建築技師として勤めており、内地でヒューム管製造技師だった父を必要として呼んだらしい。
こうして私は、満州で小学一年生となり、1945年(昭和20年)、小学六年生の時、満州で敗戦を迎えることに・・・。
戦争が激しさを増してきた四年生から六年生の間は、学校で毎日、軍事教練とか、戦争ごっことか、農作業に従事する時間が増し、勉強時間は半分くらいに減ってしまった。五年生の時、学校の運動場も耕されて、さつま芋畑に変身し、その回りに“ひま”を植えた。飛行機の燃料にするのだと聞かされていた。
とにかく日本は、1945年(昭和20年)8月15日までは“神国日本”で、国民は“天皇の赤子”として教育されてきたから、誰一人反抗したり疑う気持ちは持たず、“聖戦遂行”
“欲しがりません勝つまでは”“一億一心火の玉”となって邁進していたのです。
満州では、ソ連軍の戦車部隊がどんどん南下してくるのに、日本軍は応戦しませんでした。その筈です。もうその頃、関東軍といわれた日本軍は、満州から激戦の続く南方に移っていたのです。
たまに飛来するアメリカの大型爆撃機B29を竹槍で突き落とす真似をしたり、食べ物は芋、大根、髙梁(こうりゃん)、粟(あわ)、稗(ひえ)といったところでしたが、まだ子供だったので悲壮感とかいうものはなかったのですが、大人になってみて、当時、子供を持つ親はどんなに苦しんだろうと、推察すると心が痛みます。
私は昭和20年(1945年)8月15日午前中まで、2日前から国道の側に“タコツボ”を掘る作業をしていた。
ソ連の戦車が奉天市(今の瀋陽)まで進攻してきた。明日はいよいよ私たちの住む本渓湖市に来る。進んできたら、そのタコツボから手榴弾(しゅりゅうだん)を持って戦車の下にもぐり込み、爆破させるという仕組みであった。
8月15日正午に重大放送があるから、全員ラジオ放送を聞くように、とのことで作業は11時で中止し、解散した。その正午の重大放送こそが、日本がポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたという天皇の放送であった。
戦争が終わって、ソ連軍の南下も奉天どまりとなった。私の生命は半日のズレで、今まで生かされているわけです。
私は、ぎりぎりの土壇場で死なずにすんだこの命を、戦争という愚かしいことを今後、繰り返さないために使い果たしたいと思っています。
日本が戦っているときは“聖戦”と言っていたが、今は“侵略”だったと反省し、その上に立って日本は、戦後の新しい憲法で“戦争の放棄”を約束した。そして、“人間”が大切なのだと「基本的人権」を憲法で謳い上げた。“主権が国民に在る”ことも・・・。
今の若い人たちや、これから生まれてくる人たちにも、是非、正しい目で歴史を見つめ、二度とこの“愚”を繰り返さないように努力して欲しいと心底から願っています。
(1995年(平成7年)秋 鎌ケ谷市初富本町の自宅にて)
〈追 記〉
以上の文章は、「聖望キリスト教会」会員である網野洋子姉のご主人・網野博光氏が戦後50年たって書かれた「戦争体験」です。数年前、初富本町のお宅にお邪魔した折り、洋子さんから「これ主人が書いたものよ」と渡され、一読して「これは貴重な戦争体験だ」と確信し、コピーをとらせて頂き、いつの日か使わせてもらおうと保存していたものです。
その後、洋子さんから博光氏の鎌ケ谷市議会議員10年の記録の書『市政を住民の手に』(1985年12月20日発行)を頂き、読ませてもらいました。1975年(昭和50年)から1985年(昭和60年)まで市議会議員としての活動記録から、博光氏がいかに真摯に市政のために、というより市民のために行動してきたかが判り、感動しました。
そんなことから、上記の「私の戦争体験」を補充する意味で、この活動記録から独断で数カ所「戦争体験」に加えさせて頂きました。
最後に、嬉しいニュースで終わります。80歳をこえてから体調を崩されていた博光氏が、昨年9月15日(土)に、本人の希望で、「妻洋子と同じ信仰をもって同じ処(天国)に行きたい」と福澤満雄牧師から病床洗礼を受け、晴れてクリスチャンとなりました。ハレルヤ!
(2019年7月26日記 代表:大竹堅固)