恵みのしずく

恵みのしずく(16)「愛するという道」

「愛するという道」
ウォーレン志保子司祭

──ヨハネの福音書14章15~28節──

(2019年5月26日・Church of All Nationsにて)

 

 

 ヨハネの福音書14章は、「イエスの最後の説教」「訣別説教」と呼ばれている箇所です。ヨハネの福音書13~17章にわたる「イエスの最後の説教」において、イエスは、最後の晩餐で弟子たちと共に食し、弟子たちの足を洗い、親密に、心から弟子たちと向き合い、最も伝えたいことを語りました。この箇所を読み、あなたにとって、強く心に訴えてくることや、心を動かされたことは何でしょうか?

 今週、この箇所を読み、黙想し、私はイエスのまことの「平安」と「愛」に深く心を動かされました。イエスは、間もなく12時間以内に裏切られ、激しい暴力を受け、十字架で殺されることを知っていました。このような生きるか死ぬかの重大な時にあっても、イエスの心は「平安」であり、イエスのうちには、神への「愛」と人々への「愛」しかありませんでした。

 イエスは、自分のいのちを救うために、この危機的な状況から、決して逃げたりしませんでした。むしろ、イエスはご自分の民と共にいること、そして彼らを救うために、ご自分のいのちを完全に捧げることを選ばれたのです。

 このような主なるイエスが、私たちと共にいて下さるとは、何という溢れるばかりの恵みなのでしょうか! イエス・キリストは、決して私たちを見捨てることはないのです!

〈例 話〉

 20年以上前の話ですが、ケンと付き合い始めて暫くして、私は本当にこの人と結婚してよいのか、生涯この人と歩んでいけるのだろうか、確信がありませんでした。ある日、ケンの友人の家族たちが、彼らの牧場で、大きなBBQパーティーに招いてくれました。その牧場には、数頭の馬もいました。外でパーティーを楽しんでいると、突然、馬の一頭が興奮し、暴れ出し、暴走し始めました。

 みんな一斉に、その暴れ馬から逃げました。都会で育った私には、一体、何が起こっているのか把握できず、逃げ損ねてしまったのです。大きな暴れ馬が、私の方へめがけて突進してきたその瞬間、ケンが即座に、私の前に立ったのです。ケンは逃げずに、私のそばにいて、私の前に立って助けてくれたのです。この瞬間で、私の人生が変わってしまったのです。なぜなら、この人となら、私のすべてを分かち合って、生涯歩んでいけると確信してしまったのですから・・・・・・。

 

 この馬の話は、実に小さな例えですが、私は、皆さんにこのことをいつも覚えて、歩んでほしいと願っています。それは、死と悪の力が私たちめがけて襲っているその状況から、私たちを救うために、イエスは、私たちのそばにいて、私たちの前に立って、御腕を伸ばして、ご自分のいのちを捧げて、あの十字架にかかられたという、私たちの最も重要な瞬間をいつも覚えて、心に保って歩むということです! 私たちの主イエスは、私たちを置き去りにして、決して逃げたりはしないのです。

 イエスは、私たちと一緒にいることを選び、イエスは私たちを完全に愛することを選び、私たちを救うことを選ぶお方です。このイエスこそ、私たちが残りの生涯をかけて愛し、信頼して、共に生きることが出来るお方です。キリストこそが、私たちのすべてを喜んで、分かち合うことができるお方です。このイエスとの最も親密な関係が、私たちには与えられているのです。

 

イエスの答えは常に「愛」

 イエスの「最後の説教」の中で、イエスがいなくなることに混乱し、不安な弟子たちからの質問に、イエスは繰り返し、このように答えられました。

 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたは私の戒めを守るはずです。」(14:15)

 「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(14:23~24)

 イエスの答えは常に「愛」です。イエスの命令と教えの核心は「愛」です。 イエスの「最も重要な戒め」もそうです。

 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)

 また「最後の説教」において、イエスは新しい戒めを私たちに与えました。

 「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 イエスの焦点は、常に「愛」と「共同体」であることがわかります。キリストにとって、父なる神を愛し、彼に与えられた人々(共同体)を愛することは、神の永遠の御国あるいは「新しい天地」への唯一の道なのです。

 

聖 霊

 今日の箇所で、イエスはまた弟子たちに「弁護者(助け主)なる聖霊」(16節)を遣わして、永遠に彼らと一緒にいると約束されました。聖霊の臨在は、イエスを愛する「共同体」に与えられます。

 「真理の御霊」(17節)は、その「共同体」に、イエスが語ったことを思い起こさせ、新しい創造をもたらせ、すべての真理に導き入れます。(ヨハネ16:13)

 イエスは、必ずイエスを愛する「共同体」に戻ってくること(18節)、そしてその「共同体」は、聖霊を通してイエスを見ること(19節)を、ここで保証しています。

 私たちの主イエス・キリストは、常に「共に生きる関係」にご自分の心を向けられます。イエスは、ここにいる私たち皆が、またすべての人々が、キリストにあって「共に生きる関係」「共同体」の中で生きるように招いておられます。

〈証 し〉

 私は、家の教会の環境で育ちました。私の祖父は、昭和の初め(1920年代)にキリストに出会い、クリスチャンになると、家の教会と共同生活のビジョンが与えられました。戦争が終わると、祖父はすぐに家の教会(集会)を始め、また自分の家の隣に2棟のアパートを建てました。祖父は、そのアパートを「知心荘」と名付けました。

 それは、ここに住む人々が、神の心を知り、自己の心を知るときとなるように、という祖父の深い祈りからでした。祖父が亡くなると、私の両親が家の教会とこのアパートを継ぐように召されました。多くの人々が家の教会に来ました。実に多くの問題を抱えた人たちが、アパートに住みました。私の母は、いつも料理を作り、彼らを家に歓迎しました。多くの人たちが、私たちの家を訪れ、食事をしたり、お茶をしたりして、夜遅くまで話しにやって来ました。私は、このような環境の中で育ちました。

 正直に告白しますと、十代の一時期、若い私は、共同生活におけるネガティブな側面に目がいって、このような共同体から逃げ出したいと思ったこともありました。

 

「共に生きる関係」

 しかし、成人し、教会に仕えるように召されたとき、私は、キリストにおける「共に生きる関係」「共同体」に生きるという、私たちキリスト者の本質的な“召し”を深く理解するようになりました。

 キリストは「共に生きる関係」「共同体」の中を生き抜き、「キリストのからだ」なる「教会」という「共同体」を地上にもたらすために、ご自分の命を捧げられました。キリストの「教会」とは、私たちが共に神を礼拝し、与えられた賜物を共有しながら、イエスの最も挑戦的な「新しい戒め」(「互いに愛し合うこと。イエスが私たちを愛されたように愛し合うこと」)を共に学ぶ活けるキリストの「共同体」を意味します。

 ヨハネの福音書14章は、イエスの「父の家にあるたくさんの住まい」のメッセージから始まります。イエスは、弟子たちに「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。・・・・・・わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(2~3節)と約束されました。

 これらのイエスが言う「父の家のたくさんの住まい」とは、この地上におけるキリストの「共同体」と言えます。それは、友情、結婚、家族、教会生活といった、キリストにある「関係」や「共同体」を指すと言えます。これらの「関係」「共同体」を通して、私たちは神のまことの愛を知るようになるのです。日常の「関係」「共同生活」を通して、私たちは神を愛し、互いに愛し合うようになっていくのです。

 かつて、リージェント・カレッジでジェームス・ヒューストン先生のクラスを受講していた時、先生はしばしば生徒たちに、こう勧告していました。「もし、あなたが今まで、恋に落ちたり、人を愛したり、あるいはあなたに本当の友と言える人がいなければ、ここに勉強しに来てはいけない。ここを去って、あなたの場所に戻り、まず関係の中に生きなさい。そこで、愛することの情熱や痛み、失恋、また愛し・愛されたいという強い願いを経験しなさい。それから、リージェント・カレッジで勉強しなさい」と。

 これは、実に賢明な忠告です! イエスが「最後の説教」で示されたように、「共に生きる関係」は、私たちが神の英知と愛を知るようになる秘訣です。

 

イエスのまことの「平安」

 今日の箇所で、イエスは驚くべき真理を私たちに伝えています。27節で、イエスはこう述べています。

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」 

 あの十字架の苦しみと死を前にした時においても、イエスを満たしていたあの同じ「平安」、イエスのまことの「平安」を、イエスは私たちに与えて下さっているのです! 聖霊を通して、イエスは、私たちの「共に生きる関係」「共同体」において、イエスの「平安」の賜物を与えてくださるのです。

 復活したイエスは、弟子に「平安のあいさつ」を最初にしました(ヨハネ20:19,21)。

 「平安があなたがたにあるように。」

 これは、ヘブライ語で「シャローム」です。「シャローム」とは、完全に調和のとれた、まことの平和の状態を意味します。この「シャローム」は、この壊れた世界が与えることが出来ない平和ですが、キリストにおける「共同生活・関係」を通して、神からのみ与えられるものです。

 私たち皆が、日々経験しているように、結婚、家族、友情、学校や職場などといった共同生活において、私たちは大きな痛み、悲しみ、深い傷と壊れを経験します。私たちが、このような共同生活や関係に生きなければ、私たちは、実際、痛みやストレスを経験せずに済むのかも知れません。しかし、そこにはキリストのいのちが生まれてきません。

 私たちは、「キリストの共同体」を通して神の愛、平安、親密さ、喜びの実現を経験します。そのような「共同体」を通してのみ、私たちは癒され、新しいキリストのいのちのうちを生きるようになるのです。

 ヘンリー・ナウエンが、キリストにあるコミュニティについて、こう述べています。

 「共同体で生きるという訓練は、まことの「人格」を形成します。お互いを通して、私たちは、神の真理、美、愛というものを、より豊かに、より深く知るようになるからです。真の共同体において、私たちは互いに、私たちの生活における神の臨在の奥義について分かち合うのです。共同体で生きるという訓練は、まさに、まことの祈りの訓練です。共同体を通して、私たちは、私たちの中で働く聖霊の存在を経験し、私たちは「アバ、父よ」と共に叫ぶようになるのです。共同体とは、神に従順であることを実践する場です。『神は、私個人を、どこへ導こうとしておられるのか?』という問いを、それぞれが追い求めるのではなく、『神は、私たちを、神の民として、どこへ導かれるのか?』という問いを追い求めることが、私たちにとって、根本的な重要な焦点なのです。」

 私たちの主イエス・キリストは、私たちが生涯を通じて、神を愛し、互いに愛し合うという「関係」「共同体」の中で生きるように召しています。なぜなら、キリストは、「共に生きる関係・共同生活」こそが、この地上で「神の御国」をもたらす唯一の道であると観ているからです。

 ですから、私たちが、日々の共同生活の中で、あらゆる種類のストレスや痛みを経験する時、むしろ、喜んでいいのです。なぜなら、それは、あなたが実際にイエスが召した「共同生活」の中で生きている「しるし」です。それは、私たちが実際、神にある人間である「しるし」なのです。

 あなたが壊れ、困窮していることは、実は神聖なことであり、あなたの痛み・困窮を通して、神は聖霊を働かせ、私たちをキリストの「共同体」を通して癒されるのです。キリストにある「忍耐」と「希望」(ローマ5:3~5)の賜物を通して、「神の御国」が私たちの直中(ただなか)で実現していくのです。

 

結 び

 今日、イエスの「訣別説教」を通して、私たちは神の共同体の奥義を見てきました。父なる神は、ご自分の愛する息子イエス・キリストを、この壊れた世界に送りました。それは、キリストを愛する共同体のうちに、聖霊を通して永遠に宿るためです。そしてキリストは、キリストの共同体を、「互いに愛し合う」使命へと召しました。キリストの共同体には、このただ一つの使命「イエスを愛し、互いに愛し合うこと」が与えられているのです。ここに、イエスのまことの「平安」が、泉のように湧き上がるのです。

 使徒パウロは、ヘブル人への手紙10章23節~25節で、私たちキリスト者に、こう述べています。この言葉をもって、今日の説教を終わります。

 「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行

を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

  Glory to the Father, the Son, and the Holy Spirit. Amen.