恵みのしずく

恵みのしずく(11)「“一粒の麦”となってくれた父」

 私の父・大竹達之助は、1903年(明治36年)1月1日(実際は前日の大晦日)、千葉県佐原に生まれました。佐原駅に近い、通称「佐原銀座」の中程で米・薪炭を扱う商店の長男として出生しましたが、生母かねに乳が出ないため、生後すぐに里子に出されました。

 母のかねは、若い頃“佐原小町”と呼ばれたほどの美形でしたが、旦那勝りの商売上手で熱心な余り、父を引き戻すことなく、何年も里親に預けっ放しにしたのでした。こうして、一番大切な時期に母親の愛情を受けずに育ったことが、後年の父の性格を形作る一因となったのでしょう。

 1909年(明治42年)、6歳で佐原尋常小学校に入学。勉強は出来たようですが、その腕白ぶりは大変だったらしく、斜め前の割烹(かっぽう)の黒塀のてっぺんに合わせた竹馬を作り、それに乗って佐原銀座を練り歩き、町の人たちを驚かせたそうです。

 そんな父を母かねは、中学に進級させず、丁稚(でっち)奉公に出したのでした。それを知った伯父(おじ)の一人が、「達之助は頭がよいのだから、中学位は行かせてやれ」と援助を申し出てくれたのでした。

 お蔭で中学校を卒業した父は、伯父の世話にならずに自力で高校進学を決意し、ありとあらゆる仕事(今で言うアルバイト)をして3年間を過ごしたそうです。そのために、出席日数が足らず、卒業は無理かと覚悟していたところ、何と宿直の先生の寝たばこの不始末とかで学校は全焼。生徒に関する全書類も焼失し、結果、「全員卒業!」となりました。多分、それは1921年(大正10年)と推察されます。

 その後、父は佐原小学校の代用教員となります。始めが不明のため、何年間勤めたのか分かりませんが、終わりは、はっきりしています。父が後年語った話によれば、その小学校の先生の中に、いずれ大学受験をめざして真面目に勉強している父を執拗に酒のみや悪所へ誘う者がおり、「ここにいては駄目になる」と父は決断し、1923年(大正12年)8月31日、東京へ出立したのでした。その翌日の9月1日午前11時58分、関東地方とその近辺を襲ったのが「関東大震災」だったのです。

 その後のことは詳しく聞いていませんが、「泥棒と乞食(こじき)以外は何でもやった」そうです。卒業年次から逆算すると、早稲田大学法科に入学したのは1924年(大正13年)で、「大学は出たけれど・・・」が流行語になった昭和恐慌の下の1927年(昭和2年)に、父は苦学の末に大学を卒業しました。卒業前、戦後、代議士となった同級生の武藤運十郎氏と父のどちらかが大学に残るようにと教授に勧められたそうですが、貧乏学生の父が受けられる筈もなく、武藤氏が残ったそうです。

 ちなみに武藤氏は、その後、弁護士(法学博士)となり、戦後は旧群馬3区選出の衆議院議員になりました。「日本社会党」に所属し、社会党左派の論客として名を馳せました。

 生きるために、すぐに働かねばならない父は、幸いなことに大学生時代“書生”(注=他人の家に世話になって家事や子供の全般を手伝いながら勉強する者)をしていた鉄道省(のちの国鉄)のお偉いさんの推薦で、名古屋管区に職を得ることが出来ました。

 ところが、この時代に父は、天幕伝道の賀川豊彦先生によってイエス・キリストを知り、その人生が180度の転換をすることになります。今までの学歴を捨て(実際に、大学に除籍願いの手紙を出したそうです)、折角の職も投げ打ち、裸になって“キリストの僕(しもべ)”として生きることを決意します。ペテロが網を捨てて主イエスに従ったように・・・。

 そして、当時「派出婦会」を経営していた伯父を頼って市川に来て、早速に太鼓(たいこ)を叩いて伝道を始めたそうです。(私のかなり確率の高い予想ですが)この派出婦会に職を求めに来た内田千代(のちの私の母)と父はここで出会い、千代を信仰に導き、千代は1930年(昭和5年)12月、江戸川で洗礼を受け、翌年2月、クリスチャン・カップルとして新生活を始めました。

 二人が生計の道として選んだのが、「白洋舎」の創業者・五十嵐健治氏と同じクリーニングの仕事でした。人の嫌がる汚れ仕事を敢えて選び、タライ一つ・桶一つでのスタートでした。

 二人とも蓄えなど全くない無一文に近い出発で、「ただ無から有を生ぜしむるお方である神を信じて、祈りつつ毎日を一心に働いた」(40年後の母の日記より)そうです。

 その後、二人には7人の子供が与えられ、戦中・戦後の困難な時代も、一家総出で乗り切り、その子供たちもそれぞれに自分の道を選び、独立していきました。

 また父は、1981年5月15日に再開した「市川家庭集会」の前身ともいうべき集会を、戦後の1947年(昭和22年)1月から自宅で始めました。これは、1945年(昭和20年)8月15日の正午、あの敗戦を告げる玉音放送後、「さあ、これから自由に伝道が出来る!」と叫んだ父の再出発の時だったのです。

 父が遺した愛用の聖書には、「われ一粒の麦とならば、わが生涯これにて足れり」と記されています。この言葉の通りに、父は大竹家における“一粒の麦”となったのです。

 主が私の父・達之助を選び捉えてから今日までの90年間、そしてその後半に私たちが父母の信仰を継承して38年間を、いま改めて振り返ると、主のご計画は私たちの思いなどを遙かに超えて着実に進められ、私たちはただそのご計画の中を、いつの間にか歩ませて頂いたにすぎないことがよく判ります。栄光在主です。

 父の晩年の口癖は「この老兵を用いてほしい」ということでしたが、私もいつの間にかこの言葉を拝借して、毎朝「今日もこの老兵を用いてください」と祈って、一日を始めています。父に倣って、私も残りの限られた人生を“キリストの僕”、一信徒として、いのちをかけて主に仕えていけたらと願っています。信仰の継承は、また恵みの継承でした。ハレルヤ! 主を誉め称えるのみです。

(2018年12月11日記 代表:大竹堅固)