恵みのしずく

恵みのしずく(1)「十字架を掲げて37年」

2018年1月7日(日)の新年礼拝で、22年近く聖望教会と歩みを共にしてくださった藤崎信牧師の宣教第一声は、「今あるは神の恵み」(Ⅰコリント15:10)でありました。
それは、この手紙を書いたパウロ自身の思いだけではなく、91歳をすでに迎えられた藤崎先生が人生を振り返っての思いでもあり、またこれから〈恵みのしずく〉と題して、主から頂いた数え切れない恵みの一端を綴ろうとする、この者の思いでもあります。まさに「今あるは、すべて神の恵み」であります。

 

私たちの教会の“チャーチ・ソング”にさせて頂いている吉高叶先生作の『主の家を建てん』の冒頭に「キリストの愛 迫りきてこの町に 十字架かかげん」とあります。
37年前の1981年3月末に、母の病(アルツハイマー症)のために、12年間住み慣れた千葉県稲毛区宮野木町から慌ただしく引っ越してきた新築の玄関外の壁に十字架を掲げたのは、正直なところ、この歌にある「キリストの愛迫りきて」といった心境ではなかったかも知れません。山のような荷物の片付け、3人の子供の学校転入の手続き、両親との新しい生活など目の廻るような忙しさで、宮野木時代が遙か彼方の幻にも思える生活の激変でした。特に、妻と子供たちには、そうだったでしょう。

 

そんな中で、わが家の市川帰還をいちばん喜んでくれたのが、すぐ近くに住む幼友達の大日方豊ちゃんでした。幼い頃から「ケンちゃん、ユタカちゃん」と呼び合って、毎日のように行動を共にしていました。たまにケンカをしても、一日二日すると、どちらからともなく近づいて仲直りをしているのです。
実は、彼は私より数年、年長なのですが、幼き日に“脊椎カリエス”にかかり、数年、寝た切りの生活が続いていました。その頃から私は、なぜか彼の家にしょっちゅう出入りし、彼のお母さんのもとさんが、それはそれは優しく彼の面倒をみている様子を、近くでよく観ていたのです。

 

その後、間もなくして首から上半身の皮製のギブスが出来て、それを彼に着けてやりながら、もとさんが「このギブスのお金で、お父さんの背広が何着も買えるのよ」と呟いた言葉を、昨日のことのように覚えています。
その彼は、戦後すぐにわが家で始まった家庭集会に最初から参加してくれた筈です。あとから聞いた話では、「ケンちゃんに誘われたら、仕方がないからな」ということだったようですが・・・。でも、そのうちに彼もお話に来てくれる泉田精一先生がすっかり好きになって、集会の日を楽しみにしてくれるようになりました。
そんな幼い日の思い出もあって、彼は、私たちが市川を離れてから12年の間に、近くの教会に通うようになって、私よりも先に洗礼を受けてクリスチャンになっていたのです。

 

家内と長男がすでに洗礼を受けていた宮園教会で遅ればせながら洗礼を受け、引っ越してきた私に、彼が真っ先に言った言葉が「ケンちゃん、あの戦後の集会を再開してよ!」でした。そして彼は、新築祝いを兼ねて、彼手作りの十字架を密かに用意してくれていたのです。
彼のたっての勧めに従って、集会再開を決意した私は、引っ越し後も通い続けていた宮園教会の三木先生に相談し、快諾を得て「善は急げ」とばかりに、その年の5月15日(金)をスタート日に決めたのでした。もちろん、これを知っての父の喜びも後押ししてくれました。

 

さて、折角造ってくれた豊ちゃんの十字架をどこに架けるか? いろいろ意見はありましたが、私は玄関外壁の一番目立つ所に架けることを決断しました。
豊ちゃんの厚意に応えたいという気持ちはもちろんですが、クリスチャンとして市川に戻ってきた以上は、今後はそのことを何よりも旗幟(きし)鮮明にして生きていこうという私自身の内心の願いが、そうさせたと思います。
イエス様も言われています。「わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子(=イエス)も、・・・・・・そのような人のことを恥じます」と(マルコ8:38、ルカ9:26)。愛するイエス様に、「お前はわたしの恥だ」とは思われたくはありませんから・・・。

 

その後、この十字架を玄関外に架けたのを見た父が、妻に述べたという言葉も、私の心に重く響きました。
「十字架を表に掲げるというのは、この家は『罪人の家です』ということ。そのことを忘れないように!」

今では、「集会」も「家の教会」も隣の会堂で行われるようになりましたが、わが家の十字架は37年間、同じ場所に掲げられています。

 

2018年2月記 代表:大竹 堅固