恵みのしずく

恵みのしずく(4)「今は花の名所・里見公園が・・・」

  3月末から4月初めの桜、そして5月中旬から下旬にかけてのバラ見物に、今年も多くの方々が訪れたことでしょう。私も先週、五月晴れの穏やかな陽気に誘われ、家内とバラを見に出掛けました。最盛期は過ぎた感じでしたが、まだまだ十分に見応えがありました。平日の午後にもかかわらず、次々に訪れる人の波が尽きないのにも驚かされました。

 

 ところで、この公園が戦前、陸軍病院であったことをご存じでしょうか。

 現在と同じ入り口の左手には、銃を持った番兵がいつも見張りに立っていました。そして、今と同じように入り口から坂を下って真向かいの総寧寺側には、鉄格子のはまった病舎が並んでおり、そこから怒鳴ったり、わめいたり、泣き叫ぶ声が聞こえてくるのです。

 戦後は、さすがに番兵が門番に変わりましたが、暫くその状態は続いていました。子供であった私たちは、誰言うともなく「キ□□イ病院」と呼んで気味悪がりましたが、病舎の奥の江戸川を見下ろす高台に何本かあった椎(しい)の大木の魅力には勝てず、塀の割れ目を探しては潜り込んだものです。団栗(どんぐり)と違って、椎の実は食用になったからです。細長い形で、大して実は入っていないのですが、噛むとかすかに甘く、当時、常にひもじかったお腹を多少は満たしてくれたのでした。

 

 前回に取り上げた「千葉県市川町鳥瞰図」(昭和三年一月、松井天山写生)の絵地図には、この辺りの場所に「衛戌病院」の文字がはっきりと読み取れます。「衛戌(えいじゅ)」とは、旧軍隊の用語で、軍隊常駐地の平時における秩序維持に関する任務を指す言葉です。そして、軍隊の常駐管轄区域が衛戌地と呼ばれ、駐屯部隊の司令官が衛戌司令官となって、衛戌地の一般的秩序維持、軍の建造物、病院、監獄、武器庫等の警護、軍紀の監視などに当たったと言われています。 

 つまり、衛戌病院は陸軍病院の旧称で、特に国府台にあった衛戌病院は、戦地での極度の緊張、不安と恐怖から精神に異常をきたした兵士たちの治療とその対策を研究する場所として、陸軍でも知る人ぞ知る病院であったようです。

 「わが大日本帝国軍人にそんな弱卒はおらん」と表向きは豪語しても、現実はそうでなかったことを如実に示しているのでは・・・。50年程前のベトナム戦争で、恐怖から精神に異常をきたし、未だに病院生活を余儀なくされているアメリカ軍の元兵士も多いと言う。

 極度のストレスが精神に与える異常の研究は、戦後の精神医学でも大きなテーマであり、その礎の一端を国府台の衛戌病院で戦前、治療研究に当たった医師・研究者たちが果たしていたのです。確か、精神科医であり歌人でもあった斎藤茂吉の長男・茂太(精神科医3代目)も戦前、国府台で一時期、研修期間を過ごしている筈です。

 

 さて、この衛戌病院の跡地であったと思いますが、現在「東京医科歯科大学」の教養部の場所に戦後、同大学附属病院の「分院」がありました。裏には、木造の粗末な入院病棟(兵舎跡か?)が立ち並んでいました。私たち7人きょうだいの3人が、ここの世話になったのです。

 一番上の姉・携子が体を壊してここに入院していた時、結核研修のためにお茶の水の本院から1年間の赴任を命じられた若き医師(村田健三)が姉に一目惚れして結婚。そして、7年後に矢切での開業へと導かれます。 

 また、兄の能力(ちから)は高校2年の終わりに、受験に備えて蓄膿症をここで手術し、この義兄のすすめで、それまでの志望を変えて同大学の医学部に入り、外科医となります。

 最後に、この私は高校一年の春休み(昭和30年=1955年)に、やはり義兄のすすめで、すぐに高熱を発する原因という扁桃腺肥大の手術をこの分院で受けました。手術後、しばらく休んだのち「もう帰ってもよい」ということで、父の車に乗せられて家に帰りました。しかし、何か胸がムカムカして気持ちが悪いので、布団を敷いてもらって寝ていると、突然、激しい嘔吐感が襲ってきました。母が急いで持ってきた洗面器が2,3回の嘔吐で一杯になり、それを何回か繰り返すうちに、ボーッとしてきた頭に母の「足が冷たくなってきた!」と叫ぶ声が幽かに聞こえてきたようです。

 

 その状態があと1,2時間続いていたら、多分、出血多量で死ぬところでした。助かったのは、父が強引に執刀した医者を車に乗せて連れてきたこと、もう一つは輸血用の血液の備えが殆どなかったのを、近くにあった「血清研究所」から研究用の血液を回してもらえたからでした。しかし、喉(のど)の奥の傷つけた血管を縫うことが出来ず、やむを得ず長い鉗子(かんし)で傷口をやっと止めたのでした。その結果、私は一晩中それをくわえたまま苦しい夜を過ごす羽目に・・・。あとで聞いたことですが、同じ頃、千葉大病院で私と同じ扁桃腺の手術でなくなった方がいたそうです。

 さらに後日談を言えば、輸血された血が、のちに問題となる「黄色い血」(売血)で、私は今でいう急性肝炎となり、一年間の休学を余儀なくされたのでした。

 

 この出来事を通して、思わされたことは、遠く離れた先のことと考えていた「死」が、実は現在の「生」のすぐ近くに隣接していたのだということでした。それなら、この“助けられた命”を無駄に費やすのではなく、何か人の役に立つために捧げたい、と願い続けてきました。今はこう祈って、一日を始めています。「きょうも、この老兵を用いてください」と。

(2018年5月22日記 代表:大竹堅固)