恵みのしずく(2)「東京大空襲の記憶」1.
今日は3月10日(土)。夕方まで花の植え替えに励んだ。夕食後、机に座ると急に73年前の出来事である3月10日の「東京大空襲」のことを書き残したくなった。
この年、昭和20年(1945年)2月25日に満6歳となった私は、4月から姉2人・兄一人が通っていた市川小学校入学を楽しみにしており、その準備もすでに出来ていた。
3月9日の夜、1階の窓のない6畳間に男の子3人で休んで間もなく、警戒警報の大きなサイレンの音とともに「空襲だぞ!」という父の声に飛び起きて、いつも枕元に用意していた服を急いで着、外の大正通りに出て空を見上げた。銀色に輝くB29の編隊が次々に上空を通過し、東京方面へ向かう。間もなくして、国府台に駐屯する陸軍の高射砲陣地から発射するが、全く届かず、B29の遙か下方で花火がパチパチと揚がっているようだった。
これこそが、一晩で10万人が犠牲となったとされる「東京大空襲」直前の市川の様子である。正確に記せば、3月10日午前零時8分から2時間40分、B29・130機(後に米側資料では334機)の焼夷弾のじゅうたん爆撃により、江東方面は一夜にして廃墟と化した。
「東京が燃えているぞ!」と叫ぶ誰かの声で、私たちは家に入り、2階の南側の戸を開けて江戸川方面を見ると、東京の空はすでに真っ赤で、それも見る間にこちらにどんどんと近づいているようだった。
「火の海のような空の下で、人々はどうしているのだろう?」と考えただけで恐ろしくなったが、その後の記憶は全くない。多分、「江戸川の広い河川があるから、火の手はここまでは来まい」という父の判断で、寝についたのだと思う。
父は、この3月10日後、「次は軍事基地のある市川がやられる」と直感し、生まれ故郷・佐原の奥の羽計(はばかり)村への疎開を決めた。
自分は商売(クリーニング業)があるので残り、母と子供7人がすぐに疎開することに・・・。
しかし、なぜか5番目の私だけが寸前になって「ボクは行かないよ」と残ったのだった。お陰で、兄や姉たちは田舎の学校で“いじめ”にあい、全員“田舎嫌い”になるのだが、たまに父と食糧運びに行く私は、田舎で経験した珍しい色々なことが良い思い出に・・・。
父より母の方がずっと好きだったのに、なぜ母についていかずに、父と市川に残ったのか、今考えても不思議である。多分、市川が大好きだったこと、そして「ケンちゃん、ケンちゃん」と言って可愛がってくれる住み込みの職人たちや遊び友達がすでに沢山いたからではなかったか。
昨年、ハワイから兄の能力(ちから)が来日した折、この3月10日の空襲の話になって、兄がいちばん鮮烈に記憶していることを語り出した。当時4年生だった兄は、翌朝いつものように学校に行くと、異様な光景に驚いたと言う。それは、昨夜の空襲で逃れてきた人々が校庭を埋めており、しかも誰もの顔がススで黒く汚れ、目が真っ赤に充血していたと言う。猛火に追われ、江東方面から命からがら歩いて市川橋を渡り、学校に辿り着いた避難民の群れであったのだ。4年生の兄の頭に、このときの光景がこびりついてしまったのか、何度も何度も、兄は真顔で語るのでした。
また、この日から10数年後に判ったことですが、のちに私の妻となる實川登巳子(当時1歳と3ヶ月。実家は江東区菊川町)も、3月10日の夜、母・晴子の背におぶわれ、母の機転で奇跡的に猛火の中、助かった一人だったのです。これについては、いつかまた詳しく語りたい。
父が予想した市川空襲がなかったこと、将来のわが伴侶の奇跡的な救出、主によって“残された者(二人)”として益々、主に忠実に仕えていきたいと祈り願うのみです。
2018年3月10日(土)夜記
代表:大竹堅固