恵みのしずく(40) 「320字の宣教要約」(Ⅰ) 〈秋山恵一牧師篇〉
恵みのしずく(40)
「320字の宣教要約」(Ⅰ)
〈秋山恵一牧師篇〉
(2014年9月〜2018年7月)
秋山恵一先生と奥様の民子姉に初めてお会いしたのは、2014年2月11日(火)に「かんぽの宿鴨川」で行なわれた「第34回房総聖会」においてでした。数日前の大雪で車の道中が心配されましたが、鴨川は全く雪なしでした。それにも増して、当日講師の秋山師(シオンの群れ教会・巡回伝道者)の「主を待ち望む者」と題する午前・午後2回の砕かれた素晴らしいメッセージに、教会から参加した8名全員が心満たされて戻ってきたのでした。
帰ると早速翌日、鴨川で頂いた名刺の番号にお電話をし、来て頂くことになったのが、その年9月21日(日)の第1回目の主日宣教でした。
それから、最後の2018年7月8日(日)の主日宣教まで13回のご用をして下さいました。その1、2年前からカナダの息子さんと同じパーキンソン病を発症し、伝道のご用も次第に困難となりつつありました。しかし、いつも奥様の民子姉(父上も牧師)が必ず優しく寄り添われて…。
先生は若い頃、「いのちのことば社」編集部でデザイン・レイアウトを担当していただけに、先生の花や果物の絵は、本当に素敵ですね!
私が毎週執筆している週報の中でも、特に大事な仕事と考える「320字の宣教要約」をまとめました。ご加祷をよろしく (2021年9月22日記 大竹 堅固)
〔第1回〕2014年9月21日(日)の主日宣教より。
★「人生最上の喜び」(詩篇23篇1〜6節、中心聖句6節)★
御教会でご奉仕に与れることを感謝します。今年4月に80歳(傘寿)になったと同時に、坐骨神経痛になった。お祈りをもってお支え下さい。
本日の詩篇23篇は、聖書中で最も美しく“詩篇のうぐいす”と言われます。ダビデ王の晩年の作とされ、多くの苦しみに遭遇し、人生の岩場を歩んだ者でなくては書けない言葉に満ちています。特に6節の「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」。
何と素晴らしい言葉でしょう。残りの生涯のあらゆる日々が、どのような日であるか分かりません。しかし、どんなことが起ころうとも、神のいつくしみと恵みが私を離れることはないというのです。イエスに倣う時、私たちもいつくしみと恵みをあとに残していく者になるのです。
〔第2回〕2015年4月5日(日)の主日宣教より。
★「岸辺に立たれるキリスト」(ヨハネの福音書21章1〜14節)★
主イエスは、復活後40日の間、しばしば弟子たちの前に現れた。それは、自分が死から甦って生きていることを示したかったのです(使徒1:3)。
しかし、ペテロでさえ主の復活の噂を聞き、自ら墓に行って亜麻布だけが残っていたのを見ながら、失意のまま仲間6人とガリラヤに戻り、生業(なりわい)の漁に出かけたが、その夜は何もとれなかった。4節に注目したい。「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」。周囲が山々で囲まれている湖。その山の狭間(はざま)から微かな光が…。情景が目に浮かぶようだ。
主イエスが岸辺に立たれたのはなぜか? それは第一に、弟子たちを慰めるためであり、第二に弟子たちを今一度“使命の道”に戻すため、第三は復活のイエスは私たちの日常生活にも働くお方と示すためだった。
〔第3回〕2015年7月5日(日)の主日宣教より。
★「成熟したキリスト者の確信」(ヤコブの手紙1章13〜18節)★
この教会に来る度に、「神の家族の教会だなぁ」と感じています。
さて、クリスチャンはいつまでも子供のままでいては駄目で、日に日に成長していかなければいけません。成熟したキリスト者になるためには、私たちが確信していなければいけないことが幾つかあります。
①まず第一は誘惑についてです(13節〜)。誘惑か試練かを判別するのは確かに難しいですが、誘惑は私たちを強めるのではなく、罪に陥らせまず。つまり、誘惑はサタンから出るもの。他方、試練は神から出るものです。神は愛のゆえに試練を与えるが、決して誘惑することはないのです。
②第二は神の賜物です(17節)。神の賜物には、動機においても不純なものは一切ありません。その賜物中の賜物こそがイエス様なのです。
③第三は神のみ心を確信すること(18節)。決して忘れてはなりません。
〔第4回〕2015年11月15日(日)の主日宣教より。
★「ステパノの顔」(使徒の働き6章8〜15節)★
ステパノは、初代教会の7人の執事の一人で「恵みと力とに満ち」ていた。5節では「信仰と聖霊とに満ちた人」とも描写されている。
しかし、ステパノが行なっていた福音宣教は、ユダヤ人にとっては容認できないものであった。さらに、教えに反対する者にユダヤ人の一般民衆までが加わって、ステパノを告発し、ついには石打ちの刑に処した。
初代教会最初の殉教者となったステパノの死の間際、その顔は「御使いのように」輝いていたという。それは神より来る輝きである。
あなたの生涯は、天が開かれていますか? 四方八方行き詰まったかに見えても、天の窓は開いている。ステパノのように天を仰ぎなさい。
「御顔を仰げ この世は直ちに消え去りて ただ主の御顔のみ輝かん」
〔第5回〕2016年1月31日(日)の主日宣教より。
★「365日の主」(列王記第一17章1〜2、9〜16節)★
「房総聖会」を通して、素晴らしい群れに入れて頂いていることを感謝しています。さて、2016年を迎えましたが、一体、どういう日が私たちを待ち構えているのでしょうか。考えると、不安になりますね。
しかし、今日の中心聖句(詩篇68:19)によれば、たとえどんな日が来ようと、主が私たちの重荷を肩代わりして負って下さると言うのです。
重荷を担われる「主」とは、万物の創造者であり、命の本源、「有りて有る」お方です。この主に対して、日々、私たちの取るべき態度は、①日々、主に信頼すること。それには詩篇88篇9節のように、私たちも日毎に主を呼び求めることが必要なのです。②日々、主にお従いすること。それも、自分を捨て、日々自分の十字架を負って主に従うのです。
〔第6回〕2016年5月15日(日)の主日宣教より。
★「人を造り変える神の力」(使徒の働き2章1〜21節)★
約2000年前、神の御子イエス様の約束通り、ペンテコステの日に“第3のお方”とも言うべき聖霊が、一つ所に集まっていた弟子たちが注がれた。すると弟子たちは、驚くべき変化を遂げ、全く別人のようになった。
弟子たちの内に来られた聖霊は、イエス様の御霊です。ですから、弟子たちの内にイエス様が住んでくださる。「共に」から「内に」変わったのです。
聖霊の力は今も変わらず、①あなた方をクリスチャンらしい(神の子らしい)姿にさせ、②その使命を果たさせる力となって下さるのです。
聖霊に満たされることなくして、本当にクリスチャンらしい生活をすることは出来ません。聖霊に満たされること、それは聖霊に支配されるということです。主の僕として、いよいよ主にお仕えしていきましょう。
〔第7回〕2016年8月14日(日)の主日宣教より。
★「あなたはキリストの手紙」(Ⅱコリント3章1〜3節)★
クリスチャンほど、 いつも人々から注目されている者はいません。周りの人々は、いつもあなたの行動を見ています。聞いています。そこに、清らかさ、神の愛、神の輝きを見出し、神に向けさせているでしょうか。
頭や口先では、聖書を信じている人は多いが、手や足をもって、全身をもって聖書を信じる者でありたい。私たちクリスチャンは「キリストの手紙」です。それは、墨によって書かれた手紙ではなく、生ける神の御霊によって書かれた手紙です。この聖霊は、あなたを引き上げよう高めようと働き、私たちを主イエスと同じ姿にまで変えようと働かれます。
重要なことは、聖霊の力に自分自身を委ね、明け渡していくことです。
〔第8回〕2016年11月20日(日)の主日宣教より。
★「共に歩いてくださる神」(ヨシュア記1章1〜9節)★
英国国教会のメソジスト派の創始者ジョン・ウェスレーは、臨終の時、「さようなら、さようなら」と皆に別れを告げたあと、「すべてのうちで一番よいことは、神様が私たちと一緒にいて下さることだ」と語ったという。その言葉を繰り返して、ウェスレーは88歳の生涯を終えた。
私たちによっても、これ以上素晴らしいことはありません。しかも、私たちと共に歩いてくださる。これこそ、クリスチャンに与えられた最高の特権であります。モーセやヨシュアに対しての神様の「共にいる」との約束は、今も変わらずに、私たちに対しての約束でもあるのです。
それゆえ、主に向かって申し上げましょう。「主は私の助け手です。私は恐れません」(ヘブル13:6)と。このお方から目を離してはなりません。
〔第9回〕2017年2月19日(日)の主日宣教より。
★「下には永遠の腕がある」(申命記33章26〜29節)★
私は、このところ急に老化が進み、文字通り神様に背負われての巡回伝道者であります。今日のみ言葉「とこしえにいます神はあなたの住みかであり、下には永遠の腕がある」(申命記33:27、口語訳)は、私にとっても生涯のお言葉です。たとえ“どん底”まで下っても、その下に神様の「永遠の腕」があるというのです。何という有難い恵みでしょうか。
全世界は、この偉大なるお方の腕によって創造され、用いられているのです。神様こそ、あなた方の住むべき“本当の家”なのです。あなたは、この神様を「永遠の住みか」としていますか? まだしていないなら、すぐに住みかとしてください。「人は神によって造られたのだから、神の懐に憩うまでは本当の安心はない。」(アウグスチヌス)
〔第10回〕2017年4月9日(日)の主日宣教より。
★「見よ。あなたの王が来られる」(ヨハネの福音書12章12〜19節)★
今日はしゅろの主日。昔からユダヤの人たちは「過越しの祭」を盛大に祝って、世界の各地から大勢の人たちがエルサレムに集まって来た。
イエス様もこの日、エルサレムに入城された。人々は「ホサナ、ホサナ」(ヘブル語で「今お救い下さい」の意)と叫んで、しゅろの枝を下に敷いたり、手に手に打ち振りながら、イエス様を“王”として迎えたのであります。
イエス様より500年前の預言者によって予言されていたこと(ゼカリヤ書9:9)が、今や成就したのです。イエス様は、まさに「王」でした。
しかし、それは“この世の王”ではありませんでした。イエス様がこの世に来られたのは、あなたを私を罪から、死から、永遠の滅びから救うためだったのです。「私の王」として、心に本当に迎えていますか?
〔第11回〕2017年9月10日(日)の主日宣教より。
★「私たちは神の協力者」(コリント人への手紙第一3章5〜9節)★
私の祖父は、松江バンドの指導者として有名なバックストン先生の弟子の一人でした。晩年は巡回伝道者として、ボロボロのリュックサックを背負って伝道に励み、御殿場の地で天に召されました。85歳でした。
「私たちは神の協力者である」とパウロの言葉にありますが、私も最後までそうありたいと願っています。どうぞ皆さん、祈りで支えて下さい。
本当に恐れ多いことですが、神様は人類の救いという大事業に、こんな小さな私たちを用いようとなさっているのです。神様は、あなたを神の協力者として必要とされているのです。それには何が大切でしょうか?
イエス様の協力者として働くためには、イエス様と同じ思いを持つことです。主のしもべとして、お互いに生涯主にお仕えしていきましょう。
〔第12回〕2017年11月19日(日)の主日宣教より。
★「エリシャ最期のメッセージ」(列王記第二13章10〜20節)★
1.「終わりまで神と共に歩め」 預言者エリシャは、晩年重い病を煩いましたが、主の僕として語り、内なる人は力に溢れていました。エリシャは、イスラエルにとって百万の軍隊より大きな存在でした。生ける神が共におられたからです。神と共に歩む人は、周りにも祝福をもたらし、神によって支えられ、終わりまで使命を果たすことができるのです。
2.「五回も六回も打て」 エリシャに「矢を地面に打て」と命じられたヨシュア王は、5回も6回も打つべきだったのに、3回でやめてしまいました。私たちも自分の判断であきらめ、自己流の信仰や祈りで満足していないでしょうか。生ける神が共にいるのです。神が望まれるように祈り、神が期待されるように信じ、神が喜ばれるように歩みましょう。
〔第13回〕2018年7月8日(日)の主日宣教より。
★「キリストの花嫁にふさわしく」(創世記24章1〜28節)★
今日の聖書箇所は、アブラハムの息子伊作の嫁選びの話です。アブラハムは、この目的のために最年長のしもべを自分の生まれ故郷へ派遣した。そこで、しもべは井戸に水を汲みに来る娘たちの中にイサクにふさわしい娘リベカを見出した。しもべは自分の渇きのための水を求めただけなのに、リベカは彼の10頭のラクダにまで水を飲ませたのです。
このリベカの行為は、①自ら進んで行なった行為だが、当たり前を一歩越えた愛の行為です。②またリベカの行為は「愛による犠牲の行為」です。主ご自身が「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:7、8)。イエス様の花嫁として下さい。
(以 上)
聖望キリスト教会後一同様、大竹堅固様・登巳子様
主の聖なる御名を心より讃美申し上げます。今年も残りわずかとなりました。
主の不思議なご摂理の中でキングス・ガーデン埼玉ケアハウス主の園に無事引っ越すことが出来ました。お祈りをありがとうございます。
残りの日々が主の御手の中で守られ支えられ、終わりまで歩んで休みに入らせていただきたいと切に祈っております。今後とも、ご加祷をよろしくお願い申し上げます。 (2020年12月1日 秋山恵一・民子)