恵みのしずく(22)「ホントは何も失っていなかった」 (山本 邦昭)
「ホントは何も失っていなかった」
(山本 邦昭)
上記表題の一文は、2009年1月号の『婦人之友』に載ったもので、添え書きに「リハビリ今日・明日〈左半身の麻痺・高次脳機能障害〉とあり、わが教会の山本兄弟(当時59歳)の証しであります。
このゲラ刷りと共に、前年2008年12月4日付けの美しいアドベント・カードを頂きました。そこに、こうありました。
「大竹堅固様・登巳子樣 いつも温かなお励ましをありがとうございます。2004年12月5日に倒れてから4年になりました。皆さんのお祈りをいただいて、それまでの私には考えられない位の日々を送っております。
今回、成澤さんをまき込んで、その感謝の思いを『婦人之友』に寄せていただきました。ご高覧いただければ光栄です。文章は大幅に直されましたが、いまの私の思いをこめたタイトルは譲りませんでした。ことさら、神様のことは持ち出していませんが、バックにその祝福が降り注がれていることをご理解下さい。
祝福されたアドベントでありますように。感謝を込めて。山本邦昭」
以下に掲げる山本兄弟の一文のあとに、当初の兄弟のリハビリを担当した理学療法士の成澤一枝さんの一文もそのまま掲載させて頂きました。
(2020年3月31日記 大竹堅固)
「ホントは何も失っていなかった」
2004年12月5日(日)、突然、教会で倒れました。脳出血。幸いなことに、居合わせた(注:医学部出の)友人が付き添ってくれて、救急車で隣市の救急病院に搬送されました。二人の子どもたちが駆けつけたときは、意識がなく「よくて寝たきり。悪くすると…」と告げられたそうですが、迅速で的確な措置で、九死に一生を得ました。前夜の徹夜や営業マンとして仕事中心の生活で、日頃の不摂生が原因だったのではと思います。
93年に妻を天に送り、子どもたちは自由学園に育てていただき、それぞれの大学近くに住むようになったのを汐に、それまでの住まいを引き払い、90歳近い父母の住む市川の実家へと、単身戻ってきた矢先の発症でした。
病院でのリハビリは16ヶ月に
受けた脳のダメージは重く、左半身麻痺と記憶力・集中力・注意力の低下の高次脳機能障害も加わりました。とはいえ、口も右手も自由に動きました。
救急病院では症状が安定せず、安静第一で、2ヶ月ほどしてやっと車いすに座れるようになり、回復期のリハビリ病院に移りました。起居、移動、歩行という基本リハビリを続け、日に日に回復を感じていましたが、何か人生から取り残されていくようで、落ちつかない暗い気持ちで入院生活を送っていました。左手左足の感覚がなく、手指は固く握られたまま、腕がダランと力なく垂れ下がり、こんなはずではなかった、ここから一日も早く抜け出したいという不機嫌な日々でした。
しかし、厳しくも温かいスタッフ、ともにリハビリをする仲間たちの姿を励みに、少しずつリハビリを積み重ねました。足に装具をつけて一歩を踏み出すことができたときは、訓練室のみんなが喜んでくれました。でも一人暮らしをするためには、室内で装具をつけ、杖をついて移動できることが必要でした。そこで、5ヶ月いたリハビリ病院から総合病院に転院し、転んでも自分で起き上がる、病院に作られた自宅と同じ高さの段差やベッドの配置で、必要な動作を繰り返し練習しました。9ヶ月の入院を経て、2006年春に自宅へと「生還」しました。
障害の衝撃を乗り越えて
退院を前に、リハビリスタッフ、ケアマネージャーさんが、7畳ワンルームの自室(1階)の改装、家族に頼ること(父母の住まいは2階。今は階段の昇降が難しいため、母が食事を運んでくれている)→など、生活しやすいようにケアプランを立ててくれました。急に、障害を持った息子を介護するとは、父母にとって思いもよらかなったこと。お互いの「こんなはずでは…」という思いも重なり、狭く、陽が差さない、寒い自室で、テレビを友に引きこもり中年となりました。
一つの転機は、ケアマネージャーさんが勧めてくれた、介護老人保険施設(老健)への通所でした。最初は高齢者が多いことに抵抗がありましたが、「百聞は一見に如かず」、何より清潔で、通所者は約30人、職員さんたちが明るく笑いが絶えません。自室では不可能な入浴と20分の個別リハビリ、昼食、レクリエーションなど充実しています。個別リハビリでは、いま新しい装具をつけて、「すたすた歩行」を目指しています。自分の足で歩いて外出することが目標です。
自由な時間は、持ち込んだ本や新聞を読んだり、手紙を書いたりと好きなことをして、週4日の10時〜16時を過ごしています。
59歳の私でも「特定疾病」で介護保険(要介護2)を利用しています。
行動範囲が広がって
ここで、連れだって近くのコンビニに買い物へ行く「買い物レク」に参加して、久々に「街」の空気を吸うことができました。それまで町内の教会にしか外出していなかったのですが、その先のコンビニへ車いすで行ってみました。雑誌では物足りなくなり一念発起、さらに車いすで30分かかる本屋さんまで「遠征」するようになりました。
遠慮しながら父母に頼んでいた車いすのセットも、リハビリの効果で自分でできるようになり、行動範囲が広がりました。明るく楽しい老健ライフを得て、固く閉じた左手がグ〜パ〜できるようになるとともに、それまで、固く閉ざされていた心も徐々に開かれつつあります。
支え合う喜び
ケアマネージャーさんに紹介された市民・NPO活動団体から声をかけていただき、地域の障害者との付き合いが始まりました。私もお役にたちたいと、『そよ風の会』と名付けた中途障害者の集まりを来春に立ち上げるため、世話人となり、2ヶ月に1回の会合を重ねています。
外に出る機会が増えておしゃれな障害者と交わり、服装にも気をつけるようになりました。リハビリ病院でまず言われたのも、「身だしなみはリハビリの第一歩」でした。
まだ、自分では着替えられない頃、頭はぼさぼさ、無精髭のパジャマ姿でリハビリ室に行ったときのこと。「なんですか、そのかっこうは!」という療法士さんのけんまくに、慌てて病院内の床屋に駆け込みました。病人だから、障害者だからと甘えていた心を「こんなことをしていられない」と奮い立たせてくれました。3月には、「生活を豊かにする衣服ー装いは生きる喜びー」と題した和洋女子大の講座で、このことを講演させていただきました。
突然の障害で「取り残されたぁ」「自分が人生の落伍者だぁ」と鬱々(うつうつ)していた時期もありました。しかし、以前からの友人たちに加え、各病院の療法士の方々と続く交流、行く先々で出会う友、そして家族に支えられた私はホントは何も失っていなかったんだと気づきました。
「リハビリを担当して」
(成澤 一枝)
山本さんは、私が勤務していた回復期のリハビリ病院に、発症して約2ヶ月後に入院してきました。脳内出血が重度で安静期間も長かったため、車いすに座っているのが難しく、左半身も自分で動かすことはできませんでした。
自宅での生活を目指して
ゴールは、車いすで日常生活動作の自立、退院先は自宅ですが、麻痺が重度で介護者であるご両親が高齢のため、経過を見ることとなりました。
リハビリの内容は理学療法士と作業療法士が、麻痺した左半身の機能回復訓練、起居動作(ベッドからの寝起き、座位保持、立ち座り)の訓練、車いすからベッドへの乗り移り、車いす駆動、歩行訓練、食事や更衣・洗面・整髪の動作、トイレ動作などを行いました。
リハビリは本人の趣味や特技など、病院になる前に好きだったことについて話すと、効果的なことがあります。山本さんはトップセールスマンだったと聞き、仕事のお話をお話をしました。そのときに、話したことを忘れたり、紙に書くと文字が右側に偏ることなどから、詳細な検査をして高次脳機能障害(記憶障害、注意力低下、左半側空間失認、病態失認)がわかりました。
粘り強くリハビリを続けて
臨床心理士も加わり、高次脳機能障害の訓練も増やしました。リハビリ病院では病棟の看護師もリハビリスタッフの一員なので、訓練室でできるようになったことは、すぐに病室でも取り入れていきます。毎日毎日、何度も何度も繰り返し行い、少しずつできることを増やしていきます。
しかし、リハビリ病院だけでは自立までは難しかったため、慢性期でもリハビリが受けられる病院へ転院し、その後、自宅へと退院されました。
生きる力を取り戻して
山本さんも突然障害を持って、特に自宅に帰られてから、いらいらしたり、悲観的になられていました。でも今はデイ・サービスでリハビリを継続され、持ち前の社交性を発揮して、社会との関わりの場を広げておられるようで、たいへんうれしく思います。
リハビリとは、闘うものでも、身体機能を回復するだけのものでもなく、生きる力、勇気、喜び、失ってしまったと思い違いした自分自身の価値を再び取り戻すものと思って、いっしょに訓練をしています。そのための力をを与えてくれるのが、病気になる前と変わらずに接し続ける、身近で大切な人々との関係だと思います。